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「人間らしさ」とは何か:フランクルの人間観から学考する


 この世に生まれてきて一回きりの人生を生きているのだから、本気で納得できる生き方をしたい。自分の生命をかけて本気で取り組むことができる「しごと」の世界を見つけたい。そして、少しでも人と社会に役立つ「しごと」をしたい。
 そのように思っている人は、きっと多いと思う。しかし実現できる人は、たぶん非常に少ないのではないか。本気で自らの人生を生ききれる人は、ほんとうにごく少数の人に限られるのではないか。

 そう言う私も実は、そんな大半のみんなと同じような状態でした。本気で生きるために、本気で取り組むことができる自らの「しごと」を求めて、迷い悩み苦しみ、探し出すことができずに身動きできずに、最後には自分自身に対して哀しくもなっていました。
 そんな真っ暗闇の地獄の迷悩苦哀な心境の毎日が、18歳から23歳まで5年間も続きました。そして地獄の苦哀の果てに、もうムリだ、今の自分には納得できる「しごと観」を育む力は無い、と半居直り気分になって、これからは「しごと観」を「自分のテーマ」として生きるしかない、と腹を決めたのです。そして更に、「自分のテーマ」を持って生きるのは「人間らしい」ことだ、と自分を納得させたのです。そして間もなく、「人間らしさ」追求を「自分のテーマ」としてこれから生きよう、と気持ちが決まったのです。

 しかし、「人間らしさ」とは何か、その輪郭はなかなか理解できません。
 周りのいろんな人に聞いても、「そんな抽象的なこと、考えようがない」、となかなか取り合ってもらえません。どうも日本社会では一般的に人間は、「人間らしさ」について今まであまり考えて来なかったようです。
 私も最近まで、23歳から今日75歳の最近まで、「人間らしさ」を理解するその輪郭を掴むことができないままでした。
 ところが3年程前からフランクル(精神科医1905-1997年)の人間観を学考してきて、2年程前からこの2年の間に、だいぶ「人間らしさ」の輪郭を掴むことができるようになってきました。

 「人間らしさ」とは何か?
 あなたはどのように考えますか?

 フランクルは、1961年にウィーンで行われた第5回国際精神療法会議の総括講演で、人間を飛行機に例えて、次のように言っています。
「人間は、生物学的な次元と心理学的な次元を動物と共有している。・・・本当の飛行機であることが証明されるのは、空中に、つまり三次元の空間に上昇したときである。これとまったく同じように人間は動物でありながら、無限に動物以上でもある。その理由は、人間が・・・自由の次元を有しているからである。・・・もろもろの制約、すなわち生物学的制約、心理学的制約、社会学的制約といった制約からの自由を意味する。・・・それは、このような何かからの自由を意味しているだけでは・・・なく、何かへの自由、すなわちあらゆる制約に対して態度をとることへの自由を意味している。それゆえ、人間は、自由の次元へ飛翔するときにはじめて、本当の人間であることが証明されるのである。」V・E・フランクル『人間とは何か:実存的精神療法』春秋社2011年 p.7
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# by ningen-gakkou | 2025-11-05 12:55 | Comments(0)

「自己実現欲求」✕「意味への意志」/森ノ木(四木)


第5回「人間学校」2025.10.2 に向けて

勝田茅生『ロゴセラピーと物語:フランクルが教える〈意味の人間学〉』新教出版社2022.12

2 誰でも「意味あることをしたい」と思います
1「意味」とは何でしょう?
2「意味」はどうやって見つけるのでしょう?
(1)「黒い石」だけを見る人
(2)「黒い石」を「白い石」に変える人

(3)「白い石」を自分で創る人

「私たちは誰でも自分で「白い石」を創っていく力を持っています。周囲が味気のない砂漠なら、自分の方から潤いの水を差し出し、木陰を作ることができるのです。前向きな行動を回避しようとするのは、今まで自分の方から何かを与えようとしたことがないからなのです。力や技量は何かに手をつけて初めて身に付いていきます。たとえ初めは力が及ばなくても、続けて努力していく内に底力が出てくるのです。これを信じて行動すれば、知らない間に「白い石」が作られていくのです。
 過去の状況や今置かれている状況がどんなに不幸だったとしても、いやむしろ不幸だからこそ、自分が存在する価値はあるのです。つまり、もし自分の周囲にただ一つの「白い石」も見つからなかったら、私たちは自分自身の方から「白い石」を提供することもできるのです。」p.55-56

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 「意味ある「白い石」を自分で創る」。この人間だからこそ可能な、人間らしい行為は、フランクル「意味の人間学」を理解する肝心ポイントの一つだと思います。
 「意味の人間学」が産み出す「人間蘇生」の、終着点の姿だと思います。この人間行為が、意味ある「人間の未来」の現実を創るんだろうと思います。

 しかしながら、意味ある「白い石」を自分で創る人が、今の日本社会に何人いるでしょうか?
 意味ある「白い石」を創ることが、人間にとってどれほど大切なことなのか、を解っている人がどれだけいるでしょう?
 私も含めて、日本人の大半は、意味ある「白い石」を創ることに、今までほとんど無関心であった、と思います。

 今の日本人の関心テーマは、「家族・経済・健康・教育」いわゆる4Kにある。個々人が日々に目指す生活目標の理想は、「好・楽・快・遊」好きな事をできて楽しい生活、快適な生活、遊ぶような生活にある。
 私の周囲の知人や関係者を観察していても、広く日本社会の全体を大勢として見渡しても、そのように見えます。

 人間の未来を創る人間らしい行為、「意味ある「白い石」を自ら創る」は、なぜこの日本に生まれてこないのでしょうか?
 日本人の精神年齢は未だに12歳だからなのでしょうか?
 マッカーサーは第二次世界大戦後の1951年に米国議会で「日本人はまだ12歳の少年の段階です」と述べました。

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3 間違った「意味」もある?

(1) 「主観的な意味」の罠

「自分で「これをしたい」と考えて、それを自分の目標にし、努力を重ねてそれを達成することには、それはそれで「意味」があるかもしれません。けれども、このような成功物語は、えてして単なる「主観的な意味」の実現に終わることがあるのです。
 「意味」には主観的なものと、客観的なものとの二つが考えられます。たとえどんなに目標の尊さが強調されたとしても、その実現によって、多くの人が恩恵に浴するものでないならば、それは個人的な「自己実現」の目標に過ぎません。そこに普遍性がない場合には、結果的には自己満足で終わってしまうのです。
 「自己実現」は「普遍的な意味」を実現させた時、その見返りとして初めて出てくるものなので、これを行動の目標にすることはできません。」p.56-57
「フランクルのたとえ──自己実現のブーメラン
 自己実現を目標にする人たちはブーメランのようなものだ。⋯ブーメランは目標に達しなかった時だけ、⋯自分のところに戻って来る⋯自己実現したいとばかり渇望した末にうまくいかずにしょげている人は、自分自身のもとに戻り、自分の方を向いて自分だけを「観察する」ようになる⋯。こういう人たちは自己観察に全エネルギーを費やすだけ⋯最終的に自己実現は失敗する⋯。(フランクル『ロゴセラピーと実存分析』)」p.57-58

(2) 他人が評価してくれるところ

「自分の行動を「意味」という焦点に合わせられるかどうか、それはその人が他人の評価に左右されない、自律した価値の基準を持っているかどうかにかかっています。いつも「他人から褒められるか、叱られるか」だけを基準にしている人は、どういう「意味」が今要求されているのかを自分で認識する練習ができていないことになります。」p.61

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「自己実現欲求」or「意味への意志」
 ⇒⇒「or」から「+」へ、そして「✕」へ

 あなたは、「自己実現欲求」重視派ですか? それとも、「意味への意志」重視派ですか?

 マズロー/1908-1970は、人間の基本的欲求/needsの5段階/hierarchyを説く。
5.自己実現の欲求/Self-actualization
4.承認/尊重の欲求/Esteem
3.社会的欲求/所属と愛の欲求/Social needs/Love and belonging
2.安全の欲求/Safety needs
1.生理的欲求/Physiological needs
「人間は欠乏欲求/Deficiency-needsから存在欲求/Being-needsの自己実現に向かって成長する。しかし、欠乏欲求と存在欲求は質的に異なり、自己実現を果たす人は少ない。」と言う。

 フランクル/1905-1997は「どんな人間も生まれながらに「意味のあることを実現させたいという意志」を持っている」と言う。

 あなたは、人間にとって「意味」とは、何だ? と思いますか?

 あなたは、「意味のあることを実現させたい」と思いますか?

 私は今、次のように思っています。
 「意味」とは、「人間の意志」が誕生する土台であり根拠である。
 そして、「意味への意志=人間精神」を心の核として堅持して「自己超越」実践してこそ、「自己実現欲求=存在への情感」が充実・達成される。さらに、「意味への意志=人間精神」を心の核として気力充実を持続した活動・生活をしてこそ、欠乏欲求4つも充実・達成できるだろう。

 人間は、「自己実現欲求」or「意味への意志」ではなくて、「自己実現欲求」✕「意味への意志」の理解と自覚が重要なのだと思います。
 20世紀後半に、人間の成長発達の心理構造を見事に明らかにしたフランクルとマズロー、2人の「人間性心理学=人間学」の後を継いで発展充実させていく課題が、21世紀これから私たちの前に置かれているように思います。





# by ningen-gakkou | 2025-09-24 15:45 | Comments(0)

いのち⇒こころ⇒人間精神



「今、六年間の医療教育を大学で受ける人は、人間の体の仕組みは学びますが、命のことはあまり学んでいない。心臓や肺の動きが順調にいくような生理学や病理学などは学んでも、人間を支えている命についての教養はあまりない。医者が患者を診る場合には、患者の持っている肺臓のがんを診たり、心筋梗塞を診るのが医者だと教育されています。」/『こどもに命の大切さを伝える』関西学院大学出版会2007年、p.4-5
 これは、日野原重明(1911-2017年/聖路加国際病院名誉院長)さんの言葉です。
 「今の医者は、命のことはあまり学んでいない。人間を支えている命についての教養はあまりない。」と言うのです。
 これを聞いて、あなたは、何を思いますか?

 医者は科学者であり、生命学者ではない、ということなのかなぁ。と私は思いました。
 生命学は統合学であり、科学は分科学です。人間心身生命統合学のために、科学を役立てる。それが科学の本来の姿だろう。
 しかし現実は、心身生命統合力を考える生命学は、捉えどころがなかなか見つからないから研究が進まない。あるいは、細胞や臓器などの生理学こそが科学的生命学であると理解しているのか。だから心身統合学としての生命学の研究を後まわしにしたまま、分子・細胞・臓器など心身の部分を考える分科学だけが進んでいる。それが実際の今の医学の姿なんだなぁ、と理解できます。

 最近、免疫の研究がだいぶ進んできているようです。
 免疫(疫病を免れる)は、昔は白血球の働きのことだと考えられていました。
 ところが最近は、免疫は全身の生体防御機構として把握されるようになってきました。そして、生体防御機構は生命活動そのもの、生体統合機構とウラオモテ関係だと理解されるようになってきました。
 そして、白血球以外に内分泌ホルモン・自律神経・精神作用の、計4種の全身機能によって生体は維持されている。
 つまり、白血球の免疫は、生体防御機構の中の一つの機能として、今や理解されるようになってきています。
 白血球は細胞(単位生物)、細胞が出す内分泌ホルモンは化学物質(分子)、自律神経はイオン(電子)。ホルモンも神経も、その役割は情報伝達活動です。

 では、精神(こころ)とは何か? 精神の活動とは何か?
 それを理解する取っ掛かりを、最近わたしは体験することができている、実感があります。今まで知らなかった、経験したことのない、大きな深い「こころいのち」の世界を、体感することができているのです。
 それは、人間精神が蘇生する「生命場」と言えそうです。帯津良一さん/がん外科医・帯津三敬病院名誉院長で現在89歳現役医師の言葉「生命場」から、ひらめきヒントを得ています。
 そして、古代ギリシャの生命観、特定個体の有限生命(biosビオス)を支える、各個共有の根源生命(zoeゾーエー)を、「根源生命=場の生命」として意識することができた、と言えそうです。

 私たちが日々行う精神活動は、実は生命進化の最前線の世界を、いま創っているのかもしれない、と想像しています。
 いのち⇒こころ⇒人間精神。
 人間らしい気知情意の「こころいのち」精神生命活動を、私たちはこれからどのように創っていくことができるのか?
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 いま改めて、次の三人の言葉を噛みしめながら、考えています。
 帯津良一「わたしが医者としてさまざまな人の体をみてきて痛感することは、⋯⋯人間のもつ生命のエネルギーというものに目を向けなければ、本当の医療はできないし、人間が生きる意味ということも理解できない、ということです。」(『「生命場」の奇跡:生きるとは「場」をととのえること』サンマーク出版1995年29頁)
 木村 敏「二元論は克服しなければならぬ⋯⋯それは、近代科学がめざしている物質一元論への方向にではなく、物質(身体あるいは脳)と精神の共通の根である生命への方向に向かって」(「精神の科学は可能か」/『問われる科学/技術』岩波書店1999年244頁)
 山鳥 重「こころは生命現象そのものの、もっとも純化された姿なのかもしれません」「こころはどこかに「宿って」などいるものではなさそうだ⋯⋯「出現する」のです。こころは、モノではなく、現象であり、出現であり、展開であり、構造なのです」(『心は何でできているのか』角川学芸出版2011年210、215頁)

# by ningen-gakkou | 2025-08-04 10:50 | Comments(0)

「人間=ホモ・ゾーエンス✕ホモ・ロゴエンス」仮説


 3年前の8月から毎月1回、河内長野教会の会議室で開かれる「がん哲学カフェ・赤い屋根」に、参加してきました。
 なぜ、毎月欠かさず3年間36回、通い続けることができたのか? 今月も参加しようと、いつも前向きの気持ちが生まれ続けたのか? 「がん哲学カフェ・赤い屋根」が、がん患者の気持ちをやわらかく包み込むことができるのは、その生命場の空気感とは、いったい何なのか?
 そんな問いを持ち続け、解答を求めてこの1年間、ずっと考え続けてきました。

 そしてなんと、先月6月5日から始まった「人間学校」に参加して、その解答の一つをつかむことができました。なるほど、と自ら思える深くて大きな生命場の現実を、理解できるようになったのです。
 「生命」に対する自分自身の考え方が、このひと月半で大きく変化しました。変化が、突然やってきたので、我ながらいま、正直ビックリしています。
 「人間学校」で、テキストを読んだあと、参加者みんなが本当に自由に本音でいろいろな思い・感想を話し合い、聞き合い、心の奥深くで対話交流する。
 そのなかで私は、今までの自分には理解できていなかった、深くて大きな「根源生命」の存在に気づいたのです。「有限生命」を支える「根源生命」の「こころいのち」が現れたのです。

 今までの私には、いのち・生命と言えば、ライフ=「有限生命」のことだけでした。「根源生命」の存在は、眼中にありませんでした。
 しかし、古代ギリシャ起源の西欧文明圏においては、「有限生命」の基盤として「根源生命」の存在が当然視されているようです。
 木村 敏(精神科医1931-2021年)『心の病理を考える』p.120-122(岩波新書1994年)によると、古代ギリシャでは、「ビオス(bios):特定個体の有限生命」と「ゾーエー(zoe):各個共有の根源生命」が考えられていたようです。

 10年ほど前から「人間いのち=からだいのち✕こころいのち」仮説を立てて、「人間・こころ・いのち」を学考し、人間らしい「こころいのち」を育てる方法を考えてきました。
 そしていま私は、「人間こころいのち=ホモ・ゾーエンス✕ホモ・ロゴエンス」仮説を立てることによって、人間らしい「こころいのち」を育てる方法の具体化が、明らかになってきたように思っています。
 ホモ・ゾーエンス⇔心情生命共創の場
 ホモ・ロゴエンス⇔意味への心志生命
 人間らしい「こころいのち」の未来イメージ、実現への過程が見え始めてきたように感じています。
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# by ningen-gakkou | 2025-07-15 06:45 | Comments(0)

本音対話交流⇒心通う信頼の人間関係を通して自らの本音を深く知り、心核人間精神に目覚めて本気で意味を志為する


人間学考4×10構想2025.5
①学×考×志×為
②意味意志×自己課題×自己超越×責任自覚
③意識⇒自分⇔主体⇔人間
④感情×知識×気概意思⇔意味意志
⑤本音⇔自分成長+本気⇔人間文化
⑥対話×共感+表現×共創
⑦eCPR:情動×交流(対話)⇒生力⇔蘇生
⑧本音対話交流⇒心通信頼関係
 × 心核人間精神⇒本気意味志為
⑨ピアカウンセリング+当事者研究+オープンダイアローグ+eCPR
⑩カフェ×ライブラリー×テキスト×シゴト

「本音対話交流⇒心通信頼関係:情感」
  ×
「心核人間精神⇒本気意味志為:意志」

 これを視覚図にすると

   本気意味志為
    /↑\
 本音/ 志 \心通
 対話→情┼感→信頼
 交流\ 意 /関係
    \↑/
   心核人間精神

 これを一文にすると
「本音対話交流⇒心通う信頼の人間関係を通して自らの本音を深く知り、心核人間精神に目覚めて本気で意味を志為する。」
どなります。
 これが、人間らしい「こころいのち」を育て、志為を育む人間学考構想の、現時点で辿り着いた終着要点です。

 そして不思議なことに、構想終着点に辿り着いたこのタイミングで、「人間学校」が河内長野市で私も関わって来月から開催されることになりました。ほんとうに嬉しい限りです。

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第1回「人間学校」開催予定

どなたでも参加いただけます。
不幸な運命に悩んでいる人、
生きていることに何の意味も感じられない人、
未来に希望が持てず引きこもっている人、
等々・・・。

参加費は無料です。

2025年6月5日(木) 14:00-15:30

河内長野教会 1F会議室
大阪府河内長野市西代町10−19
河内長野駅から徒歩約10分

※今後毎月第1木曜日14:00-15:30に開催予定です。
 ただし1月は休会とします。

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勝田茅生著『ロゴセラピーと物語:フランクルが教える〈意味の人間学〉』をテキストに、参加者間の本音対話交流を通して、各人が人間らしく「生きる」力を深める人間学校。

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私の「人間らしさ」観=本気・責任感+課題・テーマ

勝田茅生著『ロゴセラピーと物語:フランクルが教える〈意味の人間学〉』新教出版社2022.12

1人生のどんな状況にも「ミッション」があります

「どんなに苦しい状況でも諦めずに自分の「ミッション」、つまり役割や課題を探し出そうとする人もいます。」p30

「「意味」のある方向を探し出すためには、私たちが何に対して「責任」や「義務」を感じているかが鍵になります。・・・自分が何に対して「責任」を感じているのか、「義務」があるのか、それが自覚さえできれば、どんなに苦しい状況にも何かの「意味」を付け加えることができるのです。つまり自分が・・・納得できるわけです。」p38

 この文章を読んでいて、約50年前の自身の、いま考えても不思議な体験が蘇ってきます。

①ひきこもり→脱出
 現在75歳の私は55年程前に、18歳から23歳まで5年間、苦悩どん底の半ひきこもり状態の日々を過ごしていました。
 自分が本気で取り組むことができる仕事の世界を求めて真剣に探して、しかしなかなか見つけることができずに、何もできない身動きできない、悩み苦しみ自分が哀しい地獄の半ひきこもり状態の日々を悶々と過ごしていました。
 そんな地獄の苦悩生活から抜け出すことができたキッカケは、23歳から26歳の間に起こった、気持ちの不思議な変化体験があったからです。その結果、自分が本気で取り組めるテーマ「人間らしさ」が見つかったからです。人間らしさを探し求めて、自分の課題・テーマとして、これから生きよう、と気持ちが定まったからです。そして、本気で取り組めるテーマ・課題を持って生きるのは「人間らしい」、人間だからこそできることだ、人間はテーマを持って生きる生物だ、と思ったからです。

②人間らしく生きよう:メインテーマは人間観の探求
 23歳の時に、自分が本気で取り組める、自分にとって意味・価値があると思えるテーマ:人間らしさ・人間観の探求と巡り合った。自分が本気で責任感を持って探求できるテーマ・課題と出合えたことが、その後の私の人生を変えてくれました。
 本気で取り組める仕事の世界を真剣に探し求め続けてもどうしても見いだせず、身動きできずに苦しんでいた半ひきこもり生活。自分の仕事であり、他人事ではなく自分のことだから、自分という主体者としての責任を感じるのは当然とはいえ、責任感を抱くからこそ、先の見えない壁にぶつかって身動きできない苦しみ哀しみは、いま思い出しても真っ暗闇の世界でした。50年の長い時間を経過した今だからこそ、自分のことを客観的に語れる、しんどい、つらい経験でした。
 そんな地獄の半ひきこもり状態を脱することができたのは、本気でテーマを持って人間らしく生きる、と意志が決まったからでした。
 そして今から約50年前の23歳から26歳までの4年間に、仕事観・人間観の課題・テーマが、自分の人生のメインテーマ・課題として、自覚がより深まっていったからです。
 仕事観・人間観の問題は、自分のテーマであると同時に、今の日本社会の大問題であり根本テーマであることが、理解できてきたからです。

③フランクルの人間観と出会う
 4年前に前立腺がんを診断され入院・治療そして徐々に体力回復を図りながら、3年ほど前から以前から思い続けてきたフランクルの人間観を学考してきました。1年間の学考を経て2年前に、自分流ではありますが、フランクルの人間観「意味意志×自己課題×自己超越×責任自覚」を理解できるようになりました。
 そして昨年末から、人間学考構想を練り半年を経て、現時点の終着要点に達することができました。
 これからは、人間学校を通して、勝田茅生著『ロゴセラピーと物語:フランクルが教える〈意味の人間学〉』をテキストに、参加者間での本音対話交流によって、人間らしく「生きる」力を深める実践の場を創って行きたい、と願っています。
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 医師で日本ロゴセラピスト協会事務局長の林田憲明さん/聖路加フレンズ代表・元聖路加国際病院副院長は、自らの体験を踏まえながら、
「自らの人生を責任をもって生きる指針」
と題して、本書を紹介しています。

「本書は、人間にはどんな過酷な状況に陥ってもそれに打ち勝つ力があるはずだという根源的信頼から話が始まります。そして苦難を乗り越えるためには、時代や地域を超えた客観的な価値である「意味」を目標にすることが求められます。しかしその意味を実現するためには、自分を束縛している制約の鎖を断ち切ることも必要です。そのエネルギーとなるのが、心と体のほかに私たちに宿る精神です。健全な精神を鍛え維持することは、私たちが自らの人生を自由と責任をもって創り上げるためには必要なことだ、と本書は説いています。」



# by ningen-gakkou | 2025-05-26 13:36 | Comments(0)